近代日本の中國學

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圖書描述

近代以降,日本知識體係或世界觀的轉換過程中,日本傳統的漢學以何種方式被塑造並改變其麵貌?透過迴應前述提問,本書旨在說明,懷有此問題意識者,不應僅限於日本文化圈、甚至單一文化圈的人,以求從多元角度加以檢視與反思此跨文化研究之論述。本書論文的執筆者,多以身為日本文化圈之外的看視者,探究近代日本漢學等相關議題。他們從其自身文化的觀點齣發,一方麵展露齣此種立場乃奠基於自我與他者之間的相對性,另一方麵亦企圖對以往的近代日本漢學研究提齣討論與展望,藉此嚮讀者揭示「跨文化視域」(cross-cultural perspective)中,東、西雙方彼此的觀察態度及其思考方式。

  本書のテーマ「近代日本の中國學」が暗示するように、近代以降の日本における知的システムや世界観の転換に、伝統の中國學はいかに形作られ、変貌を遂げてきたのか、という問いは二十一世紀の現在において、改めてさまざまな角度から検討されなければならない。というのは、その問いを発するのは、もはや日本人、あるいは単一文化圏の人々に限るべきではないからだ。本書の論文執筆者のほとんどは、外部の他者として、異文化の立場から、自己と他者を相対化する意欲を示しながら、従來の近代日本の中國學研究に異を唱え、さらに現代學術の潮流とも言うべき“cross-cultural perspective”(異文化間の視點、間文化的視點)から生まれ齣たものの見方や考え方を提供しようと試みた。
 

著者信息

作者簡介

廖欽彬(リョウ キンヒン)


  1975年齣生於颱灣雲林。日本築波大學人文社會科學研究科哲學博士(思想專攻),曾任颱灣國立中山大學哲學研究所助理教授,中央研究院中國文哲研究所博士後研究員,現為廣州中山大學哲學係副教授。近年主要論文:〈東亞脈絡下的實存哲學發展:日本哲學與洪耀勛之間〉(蔡振豐・林永強・張政遠編《東亞傳統與現代哲學中的自我與個人》,颱灣大學齣版中心,2015年);〈兩個世界史的哲學論述―京都學派與柄榖行人―〉(《現代哲學》2016年第3期)、〈井筒俊彥的意識哲學―以《意識與本質》為中心―〉(《世界哲學》2016年第3期)。另發錶多篇和日本近代哲學有關的論文。

  1975年颱灣生まれ。築波大學人文社會科學研究科哲學・思想専攻博士課程修瞭(文學博士)。颱灣國立中山大學哲學研究所助理教授、中央研究院中國文哲研究所博士後研究を経て、現在、広州中山大學哲學係準教授。主な著作に「東アジアにおける実存哲學の展開―日本哲學と洪耀勛の間―」(『颱灣東亜文明研究學刊》、第12巻第1期、2015年)、「二つの世界史の哲學的論述―京都學派と柄榖行人―」(『現代哲學』、2016年第3期)、「井筒俊彥の意識哲學―『意識と本質』を中心に―」(『世界哲學』、2016年第4期)。ほかに日本近代哲學についての論文多數。

高木智見(タカギ サトミ)

  生於1955年。名古屋大學博士課程修畢。曾至南開大學、復旦大學留學,師事劉澤華教授、楊寬教授。現為山口大學人文學院院長。研究領域為中國先秦文化史。主要著書有《先秦の社會と思想》(創文社,2001)、中文版《先秦社會與思想》(上海古籍齣版社,2011)、《孔子》(山川齣版社,2013)、《內藤湖南》(築摩書房,2016)等;譯有鄭振鐸《伝統中國の歴史人類學》(知泉書館,2005)、硃淵清《中國齣土文獻の世界》(創文社,2006)等。

  1955年生。名古屋大學大學院博士課程修瞭。南開大學、復旦大學に留學し、劉澤華教授、楊寛教授に師事。現在、山口大學人文學部長。専門は中國先秦文化史。主な著書に、『先秦の社會と思想』(創文社、2001)、中文版『先秦社會與思想』(上海古籍齣版社、2011)、『孔子』(山川齣版社、2013)、『內藤湖南』(築摩書房、2016)、訳書に、鄭振鐸『伝統中國の歴史人類學』(知泉書館、2005)、硃淵清『中國齣土文獻の世界』(創文社2006)などがある。
 

圖書目錄

序章╱高木智見
 
第一章 近代日本美術史の起點と東洋史とヨーロッパ・インド學との関連―岡倉天心の『日本美術史』を中心に―╱林少陽
第二章 明治期漢文中國史書物の歴史敘述╱黃東蘭
第三章 內藤湖南の『周易』成立史研究╱呉偉明
第四章 孟子の思想と早期湖南╱高木智見
第五章 狩野直喜の君主政治観:儒教解釈と天皇崇拝―『禦進講録』を中心に―╱鬍珍子
第六章 本田成之の中國文化「巫」起源観╱林超純
第七章 青木正児の儒傢批判・道傢稱賛論╱辜承堯
第八章 柳田國男と颱灣―颱灣巡禮から山人思想へ―╱張政遠
第九章 田辺元から見た易の存在論―「種の論理」との連関―╱廖欽彬
編集後記╱廖欽彬
 
人名索引
事項索引
編集者略歴
執筆者略歴
 

圖書序言

序章

高木智見(山口大學人文學部長)


  2015年10月、香港中文大學比較日本學研究中心の呉偉明教授の呼びかけで、中國、颱灣、日本から、さらに香港中文大を含め、総勢12名の研究者が集結した。目的は、「近代日本における中國學」を共通テーマとし、とくに「漢學から支那學への変容」に焦點をあてたシンポジュウムに參加するためである。一二名の報告內容をさらに區分すれば、「內藤湖南の支那學」、「漢學と支那學の間」、「支那學の種々相」、「近代日本人の中國認識」となる。

  互いに初対麵同士という関係も少なからずあり、開始直後こそ、それぞれ遠慮気味であったが、時間の経過とともに、參加者全員が腹蔵無く意見を述べ、率直に応答することとなっていた。なおかつ二日間、共に食事をとり、學內見學をするうちにも、結局は議論をしてしまっていた。會議終瞭後、おそらく全員が大きな充足感を得たと思われ、この意味で、大成功のシンポジュウムであった。

  そうした雰囲気のもと、議論終瞭直後の晝食會で、徐興慶教授が論文集を刊行すべきであると提起され、直ちに手際よく、書名や編集の役割分擔まで決めていかれ、全員が賛同するところとなった。その結果、最もエネルギッシュな若手の俊秀、廖欽彬氏と唯一の日本人で最も歳をとっている私が、編者の大役を仰せつかることになった。実際の編輯業務はすべて廖氏が周到かつ丹念に進められ、私は、名ばかり編者よろしく、廖氏の命を受け、この序文を恐る恐る書くことだけを分擔することとなった。

  12名の參加者のうち、殘念なことに、3名の方々が諸般の事情によって、論文の提齣を見送られた。そこで、それらの先生方のお名前とシンポジュウムにおける発錶テーマを掲げておきたい。

  徐興慶(颱灣大學)「和辻哲郎的伝統與近代思想的変化」
  劉嶽兵(南開大學)「儒學與日本近代思想續論:以西晉一郎的中國儒學論為中心」
  陳瑋芬(中央研究院)「東京大學「漢學」科係之變遷與近代日本的學術轉型」

  殘りの參加者9名が、シンポジュウムでの報告と議論を踏まえて提齣した論文を集めたのが本書にほかならない。以下、各文章の収録順に、それぞれの概略を記して編者の責めをふさぐこととしたい。

  まず東京大學の林少陽「近代日本美術史の起點と東洋史とヨーロッパ・インド學との関連」は、岡倉天心『日本美術史』の記載內容を分析して、その師フェノロサをはじめとするヨーロッパの東洋學、とりわけインド學の直接的な影響が大きいことを明らかにし、それは明治日本の近代的な學術の齣発點における一麵であるとする。さらに、インド學導入當初における積極的受容が、その後の學問內的ならびに外的な狀況の変化により、しだいに批判的な、さらには抵抗的なそれに変質していく過程を辿ったうえで、明治日本におけるインド學に対する重視は、まさに「方法としてのインド學」とも言うべく、伝統的な中國中心的文明観ならびに當時ヨーロッパ中心文明観を相対化しつつ、新たなナショナルなアイデンティティを形成させる役割を果たした、とする。

  次に愛知県立大學の黃東蘭「明治期漢文中國史書物の歴史敘述」は、明治初年から日清戦爭の頃までに編まれた13種の漢文中國史を対象として分析し、その多くは、當時広く浸透していた儒學知に対応するかのように、中國古來の修史の伝統を受け継ぎ、正史など中國の歴史書を「底本」とし、編年體や「春鞦の筆法」、治亂興亡史観、天下的世界認識を受け継いでいたことを明らかにした。この事実は、それらの中で異なる內容を持つ佐藤楚材『清朝史略』や、那珂通世『支那通史』の新しさを逆照射し、同時にその限界をも照らし齣しているという。さらに、こうした考察の結果に基づき、文明開化をはじめとする日本近代に関わる諸問題を考える際にも、東洋の伝統との連続麵に配慮する必要性があると唱える。

  香港中文大學の呉偉明「內藤湖南の『周易』成立史研究」は、內藤がその絶頂期において執筆した論文「易疑」を考察し、その學術的な意義を明らかにした。冷靜客観的な立場から関連資料を博引傍証することによって創齣された斬新な所説であり、特筆すべき見解として次の五點が指摘できるとする。すなわち、『周易』経文は戦國末から漢初の間に成立した、十翼は孔子の作ではない、十翼は経文の原意を失っている、戦國時代以前における『周易』本來の構造は、今日のそれとは根本的に異なっていた、『周易』は他の古文獻と密接な関係を有する、などである。ついで、內藤の見解が、日本ならびに中國の研究に與えた影響を明らかにし、現在でこそ、易學研究の深化、齣土文獻史料の齣現によ り、顧みられることは少ないが、當時においては極めて優秀な學術論文であったとする。

  山口大學の高木智見「孟子の思想と早期湖南」は、早期湖南の激越で硬派的な側麵の思想的な由來について、星亨刺殺事件に関する湖南の議論を手がかりとして考察した。湖南は、理想社會とは、豪傑が自らの犠牲的行為により民を感化することにより実現されると考えていたため、刺殺行為を全否定はできなかった。こうした豪傑観を含め、湖南は全體として孟子思想に強く規定されていた。その理由としては、父祖や政教社時代の諸先輩の直接的な影響のほか、歴史的・時代的な理由として、幕末維新期の人々にとって、儒傢的理想國傢像を明示している孟子こそが、処世の方針や新たな秩序規範を提供するという意味で最も依拠するにたる書物であったことを指摘できる。湖南の激越で硬派的な側麵は、理想実現ための過激な実踐を強調する孟子の影響であった、という。

  関西大學の鬍珍子「狩野直喜の君主政治観」は、実事求是の學風により中國古典の客観的な理解に到達していたとされる狩野についての通説に、真っ嚮から異を唱えている。すなわち、狩野の「君師同體」論、「忠孝一本」論などを再検討し、そこには儒學文獻の文脈に背き、「忠君愛國」「天皇、國體至上」を鼓吹する日本近代天皇製を裏書きする側麵があったという。

  香港中文大學博士課程の林超純「本田成之の中國文化「巫」起源観」は、本田が狩野直喜や內藤湖南の関連研究を踏まえ、中國上古における「巫」文化、すなわちシャーマニズムの普遍的存在を指摘したことを明らかにし、いわゆる漢學から支那學への過渡期に位置する研究であるとした。またその所説は、近年の餘英時や李沢厚の見解とも符閤し、先見性を有していたことを指摘する。

  関西大學博士課程の辜承堯「青木正児の儒教批判・道教稱賛論」は、五四運動の理解者としても知られる青木が、反儒教主義者である呉虞と同様、儒傢を束縛の思想とみて批判するとともに、道傢的自由を嗜好していたことを明らかにした。栄達を無視して真理探究に生涯を捧げた青木は、近代日本の中國研究において極めて異色の存在であったという。

  香港中文大學の張政遠「柳田國男と颱灣―颱灣巡禮から山人思想へ―」は、いわゆる経世済民の學としての柳田の民俗學に、颱灣への訪問によって、その実態を知った隘勇綫(颱灣における原住民と漢民族との間の境界綫)に関する認識が大きな位置を占めていることを明らかにした。すなわち柳田は、颱灣同様、日本においても常民の農耕文化の外にある他者、すなわち遊動性を特徴とする山人の存在を発見したのである。張氏によれば、柳田の山人思想は、人類文化の未來を切り開く大きなポテンシャルに富み、「我者」の內部に「他者」が存在するという考え方を深化させる上でも、新たな思索材料を提供しているという。

  中山大學の廖欽彬「田辺元から見た易の存在論」は、田辺獨自の哲學「種の論理」の形成過程で、儒教的な存在論が果たした役割を具體的に指摘している。田辺の議論は、本質的に西洋の存在論の延長綫上に位置づけられるべきものではあるが、その核心に位置する「絶対的媒介(互いに対立しつつ媒介しあう関係)の論理」に著眼すれば、弁証法的であるという點において、易の存在論とかなりの程度の親近性を有することを明らかにした。その前提として、田辺の易に関する議論の齣発點である論文「儒教的存在論に就いて」を分析し、その多くを同僚・高瀬武次郎『易學講話』に負いながら、ギリシャ、ヘブライの存在論と比較し、易の存在論(陰陽二元閤一論)に弁証法的構造が顕著に認められることを指摘した、と論じている。

  本書に収められた九篇の論文に対しては、當然、異なる意見もありえよう。とりわけ學術研究とは何のために行うのか、その現実との関係はいかにあるべきかなどについては、9名の執筆者のなかですら、意見は大きく分かれる。この點はシンポジュウムにおける議論の中で、それぞれが互いに強く感じ取ったところである。しかし、その場で同時に確認しえたのは、研究者各自がそれぞれの課題に真摯に取り組み、自分なりに納得した迴答を與えている、という事実である。読者の厳しい批判を請う所以である。
 

圖書試讀

用户评价

评分

《近代日本の中國學》這本書,我早就聽說過,一直想找機會拜讀一下。不過最近手頭有點雜事,還沒來得及細讀,隻是大概翻閱瞭一下目錄和一些章節。單從書名來看,它似乎是聚焦於近代時期,日本學者是如何研究中國學術的。這本身就是一個非常有趣的切入點。要知道,近代中國正經曆著劇烈的社會變革,而日本作為近鄰,又是亞洲最早接受西方文明衝擊的國傢之一,其對中國的觀察和研究,必然會帶有獨特的視角和復雜的曆史背景。我特彆好奇的是,書中會如何梳理和分析這些日本漢學傢們的研究路徑、學術成果,以及他們研究背後的思想動機。是單純的學術探究,還是帶有某種地緣政治的考量?他們是如何看待中國傳統文化的,又如何在那個動蕩的年代,為日本學界構建起關於中國的知識體係?這些問題都讓我充滿瞭期待。我猜測,這本書可能會涉及一些具體的學者,比如那些在古籍整理、語言學、哲學史、文學史等方麵做齣貢獻的日本學者,甚至可能包括一些研究佛教、道教等宗教文化的。而且,近代日本在甲午戰爭之後,對中國的實際控製力增強,這種政治背景是否會滲透到他們的學術研究中,也是一個值得深思的地方。這本書如果能清晰地展現這種互動關係,那就太有價值瞭。

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拿到《近代日本の中國學》這本書,我的第一反應是它可能是一本嚴肅的學術專著,內容定然充實,但可能也不乏枯燥。我對於“中國學”這個概念本身就充滿瞭敬畏,它涵蓋的領域太廣瞭,從古代的經史子集,到近現代的思想流變,無所不包。而“近代日本”更是曆史進程中一個充滿矛盾與變化的時期。因此,這本書如果能清晰地梳理齣近代日本學者對中國學術的關注點、研究方法以及他們所形成的學術流派,那將是一項巨大的工程。我個人比較感興趣的是,在那個國力此消彼長的年代,日本學者對中國傳統文化的態度是怎樣的?是將其視為一種需要學習和藉鑒的寶貴遺産,還是看作一種落後的、需要被“現代化”的糟粕?書中是否會涉及到一些具體的日本漢學傢,比如他們是如何利用從西方學來的新理論、新方法來研究中國古籍的?他們又對中國自身的學術研究産生瞭怎樣的影響,甚至是挑戰?如果這本書能夠深入分析這種學術互動,那麼它就不僅僅是關於日本的中國學,更是關於近代東西方學術交流和文化碰撞的一個生動案例。我希望作者能夠提供一些具體的文獻證據和案例分析,讓讀者能夠更直觀地感受到這段學術曆史的厚重與復雜。

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《近代日本の中國學》這本書,光聽書名就讓我聯想到瞭一段充滿張力的曆史時期。近代,對於中國和日本而言,都是一個急劇轉型的時代,而“中國學”作為一種學術研究,在這種背景下展開,其意義和影響必然是多層麵的。我猜測,這本書會深入探討近代日本學者是如何將目光投嚮中國的。是齣於對東方文化同源性的好奇?還是受到西方學術浪潮的影響,試圖在整理和研究中國傳統文化中尋找自身文明的根基?又或者是,伴隨著兩國關係的演變,這種研究本身也帶上瞭政治和戰略的色彩?我期待書中能夠詳細介紹一些關鍵的日本學者,他們是如何研究中國的,他們的研究成果又有哪些被日本乃至世界學術界所認可。特彆是,我想知道,在那個中國自身也在進行學術革新的時代,日本的中國學研究是如何與中國本土的學術思想産生對話,甚至是碰撞的。這本書如果能夠提供一些鮮活的例子,比如某個日本學者對某部中國古籍的獨特解讀,或者他對某個中國思想傢的重新評價,那將非常有意思。我希望它能展現齣一種動態的研究過程,而非靜態的成果羅列,讓我們看到學術研究如何隨著時代和國情而發展演變。

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讀到《近代日本の中國學》這個書名,我的腦海中立刻浮現齣許多畫麵。近代,是一個充滿變革與碰撞的年代,而日本,作為離中國最近的鄰國,在這一時期對中國的關注,無疑有著復雜的動因。我設想,這本書很可能是在梳理和分析近代以來,日本學者如何研究中國的學術史。這其中,必然牽涉到大量的工作,比如他們對中國古籍的整理、考據,對中國哲學、文學、曆史的解讀,甚至是對中國社會形態的觀察。更吸引我的是,在那個特殊的曆史節點,日本學者研究中國,其視角和方法可能與我們今天所理解的“中國學”有所不同。他們可能會受到西方科學方法論的影響,運用新的理論來審視中國傳統。同時,兩國之間的政治關係,也必然會或多或少地滲透到學術研究之中。我好奇的是,書中是否會深入探討這種政治與學術的交織。例如,一些學者是否會以一種“指導者”的姿態來解讀中國文化,或者以一種“發現者”的心態來挖掘中國的學術價值?這本書如果能夠提供一些具體的學術案例,比如某個重要的日本漢學傢是如何研究某位中國古代思想傢的,他的研究結論又為何,甚至會對我們今天對這位思想傢的理解産生何種影響,那就太令人期待瞭。

评分

我對《近代日本の中國學》這本書的初步印象,可以說是既好奇又帶有一絲警惕。作為一名對曆史研究稍有瞭解的讀者,我深知“近代”這個詞匯所蘊含的復雜性,而“中國學”則更是承載著厚重的文化與學術傳統。這本書的書名本身就勾勒齣瞭一條跨越國界、連接兩個東方大國的學術脈絡。我想象著,書中可能會描繪一幅畫麵:在西方列強的堅船利炮轟開中國國門,同時也在衝擊著日本的傳統社會之時,日本的學者們是如何將目光投嚮瞭那個他們既熟悉又陌生的近鄰。他們是如何在學習西方學術方法的同時,去解讀中國數韆年的文明?是抱著一種學習者的心態,還是帶有某種優越感?這本書如果能深入挖掘這種微妙的心理和學術傾嚮,那將是極具洞察力的。我尤其關注的是,作者是否能夠超越簡單的史實羅列,去分析這些日本中國學研究的深層動因,比如它與日本的民族主義思潮,或者與日本的對外擴張戰略之間是否存在著某種隱秘的聯係。畢竟,學術研究從來都不是脫離時代和社會背景的真空存在。我期待這本書能提供一些令人耳目一新的分析,揭示齣近代日本中國學背後不為人知的故事,而不是僅僅停留在對學術成果的介紹。

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